大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京高等裁判所 昭和59年(ネ)584号 判決

控訴人 株式会社 かなざわ総本舗

右代表者代表取締役 金澤一榮

右訴訟代理人弁護士 福原弘

被控訴人 宮腰謙一

右訴訟代理人弁護士 小松昭光

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人の負担とする。

事実

第一、当事者の求めた裁判

一、控訴人

1. 原判決中控訴人の敗訴部分を取り消す。

2. 被控訴人の請求を棄却する。

3. 訴訟費用は第一、第二審とも被控訴人の負担とする。

二、被控訴人

控訴棄却。

第二、当事者の主張

当事者双方の主張は、原判決の事実摘示中「第二 当事者の主張」欄(原判決二枚目表一〇行目から同一一枚目表五行目まで)に記載のとおりであるから、これを引用する(ただし、原判決二枚目裏五行目の「代表取締役金澤一榮」の次に「(以下「金澤」という。)」を、同裏八行目の「七月」の次に「三一日」を、同三枚目表五行目の「甥の関口潔」の次に「(以下「関口」という。)」を、同表八行目「脇士」の次に「(わきし。経営者の補佐人の趣旨)」をそれぞれ加える。)。

第三、証拠〈省略〉

理由

一、控訴人と被控訴人との間に雇傭契約が成立したか否かに関連して、当裁判所の認定する事実は、次のとおり付加・訂正・削除するほかは、原判決の理由欄一項及び二項(原判決一一枚目表一〇行目から一八枚目裏五行目まで)に各記載のとおりであるから、これを引用する。

1. 原判決一一枚目裏六、七行目の「甲第二号証、」の次に「右尋問の結果によりその成立が認められる第五号証、」を加え、同裏一〇行目の「証人関口潔の証言(一部)、」から同裏一〇、一一行目の「被告代表者本人尋問の結果(各一部)及び」までを「原審証人関口潔(後記措信しない部分を除く。)、当審証人宮腰洋子の各証言、原審における被控訴人本人尋問の結果、原審及び当審における控訴人代表者尋問の結果(いずれも後記措信しない部分を除く。)並びに」と改める。

2. 原判決一二枚目表三行目の「会社(小立製作所)の上司である」を「会社(小立製作所)の上司であり、」と改め、その次に「昭和四八年一〇月に入社して以来、一身上の問題も含めて親身に相談相手となりなにかと世話をしてくれていた」を加え、同七行目の「あると答えた。」を「あると答え、」と改め、その次に「その後具体的な対応策も教えた。なお、関口の母は金澤の姉で長女でもあったところから、金澤はしばしば家庭内の問題について同人に意見を求めていた。」を加える。

3. 原判決一六枚目裏六行目の「金澤に連絡した。」の次に「関口は、被控訴人と金澤との連絡係の役目もしており、前記六月末に被控訴人が小立製作所に辞表を提出したが、その受理を拒否されたことなどもその都度金澤に知らせていた。」を加える。

4. 原判決一七枚目表四行目の末尾に「被控訴人夫婦の上越市での宿は控訴人会社側で手配し、その宿泊料も控訴人会社が支払った。」を加え、さらにその次に行を変え(一六)として次のとおり加える。

「被控訴人は小立製作所の取締役・総務部長であったが、労務担当重役も兼ねていたところから、他社の労務担当者らと「労働問題研修協会」を作り、労働問題についての研修や情報交換を行なう会合をしていた。そのため、被控訴人は右協会の会員らに対しても、小立製作所を辞めて控訴人会社に移る旨を話し、七月二八日には同協会の会員により送別会も催された。」

5. 原判決一七枚目表五行目冒頭の「(一六)」を「(一七)」と、同裏八行目の「顧門」を「顧問」とそれぞれ改める。

6. 原判決一七枚目裏末行目の冒頭から同一八枚目表末行目までを削除し、同裏一行目から五行目までを次のとおり改める。

「2 原審証人関口潔の証言、原審における被控訴人本人尋問の結果、原審及び当審における控訴人代表者尋問の結果のうちには、前記二項1の各認定に反する部分があるが、前記二項1冒頭掲記の各証拠及び前記各認定に照らし、にわかに措信できず他に右認定を覆すに足りる証拠はない。」

二、以上の事実に基づき控訴人と被控訴人との間に雇傭契約が成立したか否かにつき検討する。

1. 前記事実のうち特に金澤は被控訴人から一身上に関してだけでなく、控訴人会社の経営全般に関してまで助言を受けていること、被控訴人は、慰留を振り切って小立製作所の取締役・総務部長の職を辞し、京浜地区から遠く離れた上越市にあるより小規模な控訴人会社に入社しようとしたものであり、被控訴人夫婦が右辞職直後に上越市を訪ねるに際し、控訴人側ではその日を指定したうえ宿所を手配し、その宿泊料金を支払ったこと、被控訴人は控訴人会社へ移ることを外部の人にも告げていたことなどの事実に併せて、原審証人関口潔、当審証人宮腰洋子の各証言、原審における被控訴人本人尋問の結果(後記措信しない部分を除く。)を総合すると、金澤から被控訴人に対し直接間接に給与面なども含めて入社の条件にも触れたうえで、その意思の有無についての打診があり、一方被控訴人としてはそれを受けて雇傭契約が成立し、あるいは少くとも確実に成立するものと信じて小立製作所を退社したことを認めることができる。

2. しかしながら、控訴人と被控訴人との間に雇傭契約が成立したとの事実を認めることはできない。

なるほど、原審における被控訴人本人尋問の結果中には、五月に被控訴人が上越市を訪ねた後、同月中、下旬ころに関口と金澤とが被控訴人の自宅を訪問し、そこで金澤から待遇面その他を含めて確定的な雇傭についての申込みがあり、被控訴人もこれを受け容れた旨供述している部分があり、甲第四号証、第一〇号証(乙第六号証の写)、第一一号証(乙第八号証と同じ内容)、当審証人宮腰洋子の証言中にはそれに沿う趣旨と思われる記載もしくは供述があるが、勧誘された日時・曜日については前記各供述の間に喰い違いがあり、また甲第四号証には雇傭の申込みについてはなんらの記載がなく、原審証人関口潔、原審及び当審における控訴人会社代表者尋問の結果と対比すると、前記被控訴人本人の供述及び証人宮腰洋子の証言はいずれも採用することができない。

また前認定のとおり、被控訴人の小立製作所での地位などからしても、被控訴人が控訴人会社に入社した場合、同社の東京進出とも関連して、取締役もしくはそれと同等の重要な役職に就くことが予定されていたものと推認されるところ、控訴人会社の東京進出の話しは前認定のとおりまだ検討中の段階を出ていないうえ、採用に関して被控訴人と控訴人会社との間に書面が交換されたり、被控訴人が控訴人会社に入社後に担当すべき業務の内容が具体的に検討された形跡は、本件全証拠によってもこれを認めることはできない。そもそも、被控訴人の入社後における住居も確定していた形跡はない。

してみると、控訴人会社が、金澤個人の意思が強く反映する家族的企業であったことを考慮しても、控訴人会社と被控訴人との間に雇傭契約が成立したと認めることができないのは勿論、その採用が内定していたなど被控訴人の雇傭について控訴人会社が覊束される立場にあったと認めることはできず、両者は、入社をめぐって折衝中であったものであり、その関係は雇傭契約の締結をめぐっての準備段階に過ぎなかったものと認めるのが相当である。

なるほど、被控訴人は控訴人会社への入社を確信して小立製作所を退社しているが、同人が世話好きで活動的である反面、性急で飲み込みが早い性格の持主であり(前認定の事実並びに弁論の全趣旨から認めることができる。)、新潟県上越市の中小企業の経営者である金澤の丁重ではあるが明確とはいえないその言動(前認定の事実、当審における控訴人会社代表者尋問の結果及び弁論の全趣旨から窺われる。)を誤解してしまったのではないかと推測される。

いずれにしても契約の成立を前提とする被控訴人の主張は採用することができない。

三、次に、控訴人会社に民法四四条所定の損害賠償責任があるとの主張について判断する。

1. 前記一項の事実(付加・訂正・削除して引用した原判決一一枚目表一〇行目から一八枚目裏五行目まで)及び右二項の認定事実を総合すると、控訴人会社は被控訴人を入社させることについてなんら法的責任を負担せず、したがって右入社を断わり、結果として被控訴人が小立製作所の職を失ったことになったとしても、そのこと自体はなんら違法ではなく、控訴人会社の責に帰すべき理由はないというべきである。また金澤が被控訴人と交渉するに当たって、雇傭の申込みをしたと認められないことは前記のとおりであり、その他特に金澤が被控訴人の誤信を誘発するような言動をしたと認めるべき証拠もなく、いずれにしても控訴人会社の代表者たる金澤がその職務を行うにつき被控訴人に対し債務不履行もしくは不法行為をして損害を与えたとする主張(1)は理由がない。

2. しかしながら契約締結の準備段階であっても、その当事者は、信義則上互いに相手方と誠実に交渉しなければならず、相手方の財産上の利益や人格を毀損するようなことはできる限り避けるべきである。特に本件は雇傭契約の締結をめぐっての準備段階とはいっても、控訴人会社が被控訴人を幹部社員として迎えるかどうかであって、両者の信頼関係は通常の契約締結準備段階よりも強かったことはさきに認定したとおりである。したがって、右準備段階での一方の当事者の言動を相手方が誤解し、契約が成立し、もしくは確実に成立するとの誤った認識のもとに行動しようとし、その結果として過大な損害を負担する結果を招く可能性があるような場合には、一方の当事者としても相手方の誤解を是正し、損害の発生を防止することに協力すべき信義則上の義務があり、同義務に違背したときはこれによって相手方に加えた損害を賠償すべき責任があると解するのが相当である。

これを本件についてみてみると、右1冒頭記載の各認定事実によると、被控訴人が控訴人会社に入社するため小立製作所にいったんは辞表を提出したが会社側に受理されず、その後七月一一日に再度辞表を提出し七月三一日限り退社する予定となったことなど一連の経緯を、金澤は関口を介してその都度知らされていたのであるから、前記一項で認定したところによると、金澤自身としては六、七月ころにはさきの興信所の調査のこともあり、当初の印象と異なり被控訴人に対しかなりの不信感を抱いていたことが窺われるけれども、なお控訴人会社が被控訴人の雇傭問題について現在いかなる方針を抱いているか的確な情報を提供し、被控訴人が自己の行動を再検討する契機を与えるべき義務があったものというべきである。

しかるに、金澤は前記認定(原判決二項1の(一三))のとおり、関口を介して「現状のままでいい。」という簡単な言葉を被控訴人に伝えたのみであって、前記義務を尽したものとは到底いうことはできない。すなわち、右関口自身、同人の母が金澤から云われた言葉をそのまま伝えたのであるが、その意味を理解していなかったことは同人の原審における証言から明らかであり、また確かに当時の状況としては右の言葉は、雇傭に関すること、支店に関すること、あるいは金澤自身の考えでなく、その交際している女性からの言葉をそのまま伝えたなど多様に解する余地があり、前記被控訴人の誤った認識を是正させる機会を提供する言葉としては不充分であったというべきである。

してみると、控訴人会社としては、その代表者である金澤が、契約締結準備段階において要求される前記信義則に違背するという違法な不作為に及んだのであるから、その結果被控訴人に加えた損害を賠償すべき責任があるといわなければならない(なお、被控訴人は右損害賠償を控訴人会社の代表者たる金澤がその職務を行うにつき加えた債務不履行もしくは不法行為として主張しているが、その主張の中に右のような信義則違背のそれを含むことは、弁論の全趣旨に照らして明らかである。)。

もっとも、被控訴人としても、契約準備段階で小立製作所を退社する必要は必らずしもなかったというべきであり、控訴人会社と書面で契約を確認し合うとか、少くとも前記金澤からの「現状のままでよい」という言葉に対し、その正確な意味を確かめてから最終的に退社したとしても、雇傭契約の成立にはなんら支障はなかったものであって、退社したことによる損害については被控訴人の過失に起因するところが大であり、その過失の割合はこれまでに説示した諸般の事情を考慮すると被控訴人側約七割強、控訴人会社側約三割弱とするのが相当である。

3. そこで被控訴人の被った損害額について判断する。

前記甲第二号証、原審における被控訴人本人尋問の結果により原本の存在とその成立を認めることができる甲第一号証、右本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨によると、七月の退職時で被控訴人は小立製作所の取締役・総務部長の役職にあり、少なくとも給与として月額金二七万円、賞与として夏・冬各金一〇〇万円づつの支払を受けており、今後も在職したとするとそれ以上の給与等を得たであろうこと、小立製作所は満五八歳が停年であるが、被控訴人は取締役であったため六〇歳を過ぎても勤務を続けられたであろうこと、また被控訴人は、小立製作所を退社後昭和五六年七月から啓運堂に勤務し、印鑑のセールスをして平均月額金二五万円の給与を得ていることが認められ、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。

ところで、本件の損害賠償義務が契約準備段階での附随的義務というべき前記信義則に違背するという不作為に基づくものであり、また被控訴人が小立製作所を退社することが契約準備段階の行為としては必らずしも必要ではなかったことなどの事情を考慮すると、金澤の前記不作為に基づき控訴人会社が負担すべき損害は、被控訴人が小立製作所を退職したことによって失った逸失利益のうち二年分の所得に限るのが相当であり、その額は昭和五五年八月一日現在で金六七八万八七三七円(別紙、計算等参照)と認められるところ、さらに前記過失割合でその損害の分担を定めると、そのうち控訴人の負担すべきものは金二〇〇万円とするのが相当である。

次に被控訴人は、本来勤務を継続できた小立製作所を退社して、安定した職場を失い、五五歳を過ぎてから印鑑のセールスマンとして生計を立てざるを得なくなったことは右に認定したとおりであり、被控訴人はこれにより精神的苦痛を被ったことは明らかであって控訴人会社は被控訴人の被った右苦痛をも慰藉すべき義務があるものと解すべきところ、これまでに説示した諸般の事情を考慮すると、その額は金一〇〇万円とするのが相当である。

四、むすび

よって、被控訴人の請求は金三〇〇万円とこれに対する本件訴状送達の日の翌日であることが記録上明らかな昭和五五年一二月一二日から完済まで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める限度において認容し、その余は失当として棄却すべきところ、これと理由を異にするが結論を同じくする原判決は相当であり、本件控訴は理由がないからこれを棄却し、控訴費用の負担につき民訴法九五条、八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 岡垣學 裁判官 鈴木經夫 裁判官佐藤康は転補につき署名押印することができない。裁判長裁判官 岡垣學)

〈以下省略〉

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例